WEB会報バックナンバー
36号  37号  38号
第38号会報開成マラソン第100回記念にちなんで、マラソン特集です。

1950年代の名物先生の似顔絵
ペンと剣の旗の下(昭和23年卒業生)
漫画少年と少年倶楽部
松戸開成会会報 1号~35号 目次
松戸開成会 
WEB会報.(試験運行 2008・8) 
 平成22年4月号
   総会報告 
   講演 『市民マラソンの輝き
昭和31年卒 大島幸夫様
   総会第36回 第37回 第38回
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   新着情報 「栄光をたたえて」
開成マラソン第100回記念誌 (伊藤先生より



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第38回総会講演 『市民マラソンの輝き』
昭和31年卒 大島幸夫

今回の講演は、大宮マラソンでの入賞経験がその後の早稲田大学」競走部へ、そして毎日新聞運動部編集員、特別委員となり、「NPO東京夢舞いマラソン理事長に就任。そして、「東京マラソン」へのきっかけを作るにいたった大島幸夫さんの講演で、松戸会員のほとんどが知らなかったジャンルのお話で、講演終了後も、質疑応答がいつまでも続きました。
普段、何気なく使っている「市民マラソン」、「市民ランナー」という言葉のもつ意味を考えさせていただいた素晴らしい講演でした。
開成時代 大宮マラソンでの大島さん


2006年10月26日発行 岩波書店
走って撮った「世界の市民マラソン」写真 多数掲載

(カバー見返しより)

欧米のマラソン大会では、走るだけでなく、大会のマネジメント、給水や伴走のサポート、沿道での応援、時によっては警備員の手配まで、すべてふつうの市民がやる。
競技選手ももちろん参加するが、まずもって「市民が主役」の世界である。

ひるがえって、日本ではどうか。

TVのマラソン中継はもっぱら先頭集団だけを映す。
まだまだ記録狙いのスピードランナーが主役の世界だ。
けれど日本にだって、これまでに市民ランナーたちのさまざまな試みはあった。



大島幸夫写真展  ストリートパーティーに花を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
                    2006年12月12日-19日   コニカミノルタプラザ ギャラリーA
大島幸夫  (松戸開成会挿入  ヘレンケラー・サリバン賞」受賞のニュース  Yahoo!検索 

1937年,東京生まれ。毎日新聞社で運動部編集委員、特集版編集部長、特別委員などを経て、フリージャーナリスト。広範なジャンルのノンフィクションを手がけ、「NPO法人東京夢舞いマラソン実行委員会」理事長も務める。

フルマラソンの自己ベストは2時間59分21秒。100kmウルトラマラソンは9時間47分52秒。ボストン、ニューヨークシティ、バンクーバー、パリ、ロンドン、ベルリン、南ア・コムラッズ(87km)などの海外20マラソンを走る。99年「第12回ランナーズ賞」を受賞。

『沖縄の日本軍一久米島虐殺の記録』(新泉社)、『沖縄ヤクザ戟争』(晩聾社)、『教師たちの犯罪─若いいのちが壊されていく』(太郎次郎社)、『原色の戟後史-戟後を日本人はどう生きたか』(講談社)、『勇気に風を-太平洋縦断ヨットレースの記録』(毎日新聞社)、『地球人の伝説─もうひとつのシネマワールド』(三五館)など著書は多数。
写真展開催に「地球人の伝説」(コニカプラザほか)。
『市民マラソンの輝き』巻末より



市民マラソンの輝き「はじめに」   改行、太字・青字は松戸開成会で編集させていただきました。
はじめに

改めて思う。言葉は文化である。スポーツの分野とて同じだろう。
市民マラソンといい、市民ランナーという。こういう言い回しは、日本にしかない。
欧米では単にマラソンであり、ランナーである。
なのに、わざわざその前に「市民」と振る日本語がある。なぜか。

マラソンは、文字どおり、道路を走る。
競技場のトラックやフィールドで行われる他の陸上競技と違って、ランナーは街に出て行く。
競技場スポーツとは言えないマラソンの社会性は、なにより公道スポーツ、街路スポーツという点にある。そして、日常の生活空間である公道、街路は、もとより、限られた団体や特権選手のものではない。社会の共有財産であり、市民みんなのものである。

だから、外国のマラソン大会は、オリンピックと世界選手権を例外にして、
市民社会に広く開放されるのが常である。
ニューヨークシティマラソンでも、ロンドンマラソン、ベルリンマラソンでも、記録と順位を競う競技派スピードランナーの後ろに、圧倒的な人数のランナーが続く。ファンラン(楽しんで走る)派あり、チャレンジ人生派あり、仮装の変身派あり。その多彩な人間模様を、これまた多種多様なボランティアがサポートする。

沿道市民の途切れない大応援にプラスして、歌、ダンス、楽団などバラエティーに富んだアトラクションもある。膨らむお祭り気分に、警備の警官や非常待機の消防署貞までが拍手し、交通規制のために渋滞する車列の中からさえドライバーの声援が飛んで、ストリートパーティーの華やぎがいよいよ盛り上がっていく。
ぼくがこれまで走り巡ってきた世界各地のマラソン大会ドリームを列挙したらきりがないのだが、いずれの大会にも共通するのは
市民組織による自主的な運営ぶりである。

行政まかせ、競技団体まかせに流れない大会の自立性と市民主義が、
ボランティアの自発性と相まって、これぞ公道文化という美しい大輪の花を年ごとに開く。
ここでは大会の主催者も、競技派ランナーも、そうでないランナーも、ボランティアも、みんながみんな市民である。とあれば、あえてことさらに、市民マラソン、市民ランナーと呼ぶこともない。


ひるがえって、日本ではどうだろう。
例えば、こんなシーンをぼくは思い出す。
東京・明治神宮外苑の聖徳記念絵画館周回歩道でのことである。
日本長距離陸上界の一角を代表する某有名実業団チームがロードトレーニングをしていた。タイムトライアルでも行っていたのだろうか、ストップウオッチを手にしたコーチとおぼしき男の前を、トップ選手たちがエンジン全開で走り抜けて行く。
と、ストップウオッチ男の大声がほじけた。
「そこのおじさん、危ないよツ、選手が来るからどいてッ」
見れば、高齢ランナーが独りゆっくりと歩道を走っている。突然、大声で注意された「おじさん」は一瞬、立ち止まり、ムッとして言い返した。

「危ないとは何だ。失礼な! キミたちだけの道じゃないだろう」
もう、二〇年以上も前の見聞である。でも、ぼくはその時の唖然とした思いが忘れられない。暴言を謝るそぶりさえなかったストップウォッチ男の横柄さが、この男一人だけの感性によるとは考えられなかったからである。


当時、ランニングブームはすでに定着し、街を走る市民の風景は珍しくなかった。
町おこし、地域おこしのランニング大会が全国各地に相次いで誕生しつつあった。
しかし、街のランナーはそうした地域の大会には参加出来ても、東京、大阪、名古屋、福岡などの大都市メインストリートで日本陸上競技連盟(以下、陸連)が仕切るマラソン大会への参加は許されなかった。
かの「おじさん」ランナーは「キミたちだけの道じゃないだろう」と正論を吐いたけれど、実態は残念ながら、そこのけ、そこのけ、スピード選手が通る。大都市のメインストリートは「一部スピード選手たちだけの道」にほかならなかった。

さて、「市民マラソン」「市民ランナー」という日本特有の表現だが、その言語史はそう古いものではない。
1981年2月22日、神奈川県で第一回三浦国際市民マラソンが開かれた。「市民マラソン」と大会名にうたったハーフ以上のマラソン大会は、ぼくが調べる限り、日本でこれが初めてである。それより前、1970年代の日本ランニングブームの夜明けは、本文で後述するように、初めは中高年によって、次いで女性によってもたらされている。

この時代、ランナーといえば、大学や実業団の本格的な陸上競技選手に限られていた。そうでない中高年のランニング愛好者や女性、若くても走力に劣る者や障害者は、陸連の一部権威主義者から「年寄りランナー」とか「素人ランナー」とか差別的に呼ばれて排除され、異端視されるだけだったのである。
その文法に従うなら、市民マラソン、市民ランナーという表現にも、初めのうちは、正続派を自任する陸連関係者が市井のランナーを異端視して見下す語感がつきまとった。だから、ぼくもこの言葉との出会いにはいささかの抵抗感があったが、異端はえてして新たな正続への予兆である。

市民マラソン、市民ランナーという言葉を、
新しい時代を拓く自立した市民の自由なランニングスタイル、その実践走者と理解すれば、むしろ、それまでの日本になかった開かれた価値観を担うランニング用語として受容できようというもので、そのうち、ぼくは積極的にこれらの言葉を肯定し多用するようになった。
事実、市民マラソン、市民ランナーのその後のうねりにみる社会文化史的なパワーといったらない。
では、そのパワーとは何だったのだろう。
そのルーツと時代背景は、人間像の真実は、そして展開と方向性は……。

チャンピオンスポーツの勝敗原理に縛られない市井のランナーの視点に立って、マラソンないしロードランニングの社会文化を、歴史の糸を手繰ることで、あるいは人間ドラマに寄り添うことで、またあるいはぼく自身の体験取材を通して、考えてみたい。

   
            伊藤先生                   大島幸夫氏 講演の後の質疑応答で・・・


昭和31年卒 安蒜会長の同級生

開成新聞 昭和30年 第39号

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永沢まことさん(名物先生の似顔絵)


総会を終えて


皆様のご意見、おたよりをお待ちしております。 

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